コミュ障さんから学ぶ「自分」を表に出す意義
ニッポン放送の吉田尚記アナウンサーは、超がつくほどのオタクアナウンサーで有名です。(調べたら彼が私の学年一つ下と知って愕然としました)
そんな彼が本を出版したのは2016年。私は長年同局のリスナーなので本の存在自体は知っていました。
でも読みたいとは思っていなかったですし、そもそも彼に興味がなかったので放置していました(^_^;)
昨年、愛読するネットニュースでこの本が取り上げられ、軽く読んでみたら非常に共感する部分、そして彼が今の地位を確立するまでに相当な苦労があったことを知りました。
私個人としてはどうも自分に似てて嫌だと思っていましたが、このエピソードを読んで、彼を見る目がちょっとだけ変わりました。
今回はそんな吉田アナの体験談から、私が悩み続けていた一つの課題に対する考察をしてみます。
オタクは色々考えすぎてしまうもの
吉田アナはアニメ、アイドルなどが大好きな典型的な「オタク」ですが、社会人になってからそれを封印していたそうです。
その気持ち、とってもよくわかります。
特にオタク傾向にある人はみなさん同じ気持ちだと思います。
私もゲームや野球を中心にちょっと変な趣向があるので、社会人になってから基本封印していますし、そのせいか上手く人と関われません。
特に飲み会は苦手で、席に着いたものの隣と何を話したらいいんだろうかといつも悩みます。
私の場合、仕事関係の話ならいくらでもできますが、ドラマとか映画とか一般受けするような話はできません。
それに相手が何が好きなのか聞き出せないし、変に自分の趣味の話なんてしたら大抵引かれるので、仕事に支障をきたします。
結局聞き役に回っていつも静かにしているので、終わると正直疲れます。
普通の会社員ならとりあえず話ができればそれでいいですが、アナウンサーとなると必ず人と関わりますし、なにより相手の良さを引き出さなければなりませんから結構大変だったと思います。
私の経験から考えるコミュ障の人は
- 気心知れない人たちの付き合いが苦手
- 常に何か話題を、何かしゃべらないと、と焦って考えている
- そして空回りして、自爆して自己嫌悪に陥る
このような方たちではないかと思います。
フォロワーが増えることによる感情とのせめぎ合い
逆にTwitterやFacebookは、同じ趣味の人とつながれるので楽しい場所ではないでしょうか。もちろん私もその一人です。
しかしつながりが多くなればなるほど、私は逆に縛られる感覚に襲われるようになりました。
その根底にあったのは「自分が好きな趣味を共有している人は、自分の好きな趣味全部を好きとは限らない」という思い。
要は、私のツイートや投稿は見ている人、つまりフォロワーによって迷惑なものもあるんじゃないかと感じ始めたのです。
私はこう思っているんだ!こんなことを伝えたいんだ!
・・だけどこんな事を一気に相手に伝えたらつぶれてしまう。
思いの丈を書いたら面倒な奴と思われてしまう。
そもそも深い付き合いじゃない相手だから失礼だ。
そんなことを考え出したら、ちょっとしたつぶやき程度なら言えても自分が伝えたいこと、語りたいことなど、心の奥底にある秘めた感情がだんだん出せなくなっていました。
そのとき、体験談で出てきたこの言葉が脳裏に浮かんだのです。
感情の出し惜しみをするな
私は急いで調べ出し、この記事を見つけ出しました。
この体験談の中で一番心に響いた「感情の出し惜しみをするな」。
著書では、収録後ダメ出しされた吉田アナが担当者から言われた一言でした。
この言葉にハッとしました。
私もコミュ障といえばそうですし、無愛想であまり人と話したくない内面があります。
人と関わるのは嫌いではありませんが、むしろ一人で行動する方が大好きなのです。
オタクな性格は疎まれる存在でした。
だから自分の好きなものを大っぴらに出すことなどできないので、どうしても共感できる人としか深く関われないのです。(気を悪くしないでください)
それを知っているから、深い深い感情を表に出せないのです。
奇特な目で見られる恐怖を知っているから、そんな恐怖に打ち震えるなら、内なる気持ちを隠して上辺だけで表現したほうがましだと思うのです。
だけどそれではいけないのです。
思ったことや感じたことなど、感情を出し惜しみするのは自分を否定しているのと同じ。
もっとオープンにしてよかったんです。
吉田アナが自分の殻を破った特番の話があります。
担当したのは大好きなパトレイバー。これまで封印していたパトレイバーへの熱い思い、リスナーから上がるマニアックな部分を拾い出して語ったことで、彼はリスナーから大きな支持を得て、現在に至っています。
このことから
心の奥底にある深い深い「好き」の気持ちは表に出していい
ということをもう一度思い出したのです。
言葉遣いを直すことと感情にふたをするは同じではない
ここで私の葛藤が出てきます。
敬愛する浅見帆帆子さんは著書の中で「言葉遣いに気を付ける」ことを常々おっしゃっていました。
私自身結構言葉遣いが良くないので、これを「思ったままの気持ちを出してはならない」と解釈して実践していました。
しかしそれは感情を押し殺すことになり、とても窮屈でした。
人の顔色を伺っては思いを前に出すことへの恐れに苦しむことになりました。
だけどそんなこと考えても仕方ないんです。
自分で自分を縛り付けても、自分が苦しむだけなんです。
そのときやっと解釈が間違っていたと気づきました。
この場合の言葉遣いとは、「うざい」「キモい」といった汚い言葉であり、感情にふたをすることとは違うのです。
感情はもっと出していい。
好きな気持ちをもっと表に出していい。
人にどんな風に思われてもいい。
これを自分に向けるとしたら、
あなたが持っているその「感情」に、人は心を打たれるんです。
喜怒哀楽をなくしたら人としての魅力がなくなるのです。
という感じでしょうか。
改めて考えると、浅見さんは「本音で動く」ことも提言していました。
それは自分らしく動くという意味であり、自分の感じたまま、思ったままに進みなさい、ということでもあります。
でもつい自分のことばかり話してしまうので、これからは吉田アナの話にもありますが相手に会話のボールを「投げかける」スキルを身に付けようと思っています。
とはいえ今も「まずどんなことを聞いたら・・」と失敗を恐れて構えてしまいます。
そこは単に経験不足なので、ちょっと頑張ってみます。
人とのやり取りはキャッチボールと、前職で教えられました。
それが対面であろうと、SNSであろうと、自分らしさを失わず、思ったことを発信していければと思います。
吉田アナのお話、大変勉強になりました。
この独り言ブログも、本心を語るための訓練場と思って運用しています。
今でも公開することに躊躇しますが、勇気を持って開けています。
内容によっては嫌悪感を感じるかもしれませんが、客観的にまとめているつもりですので今後とも宜しくお願いします。
参考文献
ddnavi.com