神様に褒められる人になろう
先日、聖書から「神様に褒められる人になろう」という言葉を聞きました。
その言葉から、果たして自分は神様にほめられる人なんだろうか、と自分を省みました。
自分自身を振り返ると・・
これまでの自分の行動を振り返ると、叶ったものもあるけれど、実現できなかった夢も多く、その未練の方が強く残ってどうしようもない時があります。
それに叶ったものは本当に自分にとって良かったんだろうか。
誰かに認められたくてやっただけなんじゃないかと思ってしまうのです。
結局自分は一切満足できていなくて、自分のために頑張ったんじゃない気がするのです。
私の尊敬する、女神ワルキューレ
そもそも神様に褒められる人になりたいけれど、私にとっての神様って誰だろう。
そう考えてみたとき、真っ先に浮かぶのはワルキューレ様です。
ゲームのキャラクターですが、凛とした姿は本当に心を奪われてしまいます。
ワルキューレ様は永遠の私の憧れの存在で、あの人のようになってみたいといつも思っています。
世界を壊すものに対しては強い気持ちで挑む。
一方で地上人を見守る優しい心。
その雄々しい姿に心惹かれ、時に自分を見失う時はいつもその姿に励まされるのです。
もしワルキューレ様が神様だとしたら、私は果たしてほめられるような人だろうか。
普段から前向きに歩んでいるとは言えず、いつも叶わないことに悲しみ、それでも必死にあらがっている。
思っていることや言いたいことを他人の気持ちなど何も考えず突っ走って、後になって何やってんだと自己嫌悪になる。
果たしてこんな自分で神様にほめられるんだろうかと思ったのです。
神様にほめられる人になるとは
そう鬱々とこの文章を書きながら一人自問自答を繰り返す中で、出てきた答えは、
自分を見失わずに、社会のために、誰かのために、もちろん自分のために働くことじゃないか
というものでした。
人の顔色なんて気にしてちゃいけません。
それこそ自分を見失うことになります。
誰かのためでも、誰かに認められたいからでもありません。
他者を優先するのではなく、自分ありきの姿勢を貫くのです。
そうすればいつか褒められる姿とはどういうものか、指し示してもらえるはずです。
もっと大胆に、もっと大っぴらに、嫌われようがなんだろうが自分を見せた方が絶対にいいと思ったのです。
それでダメだったらそこまでと割り切ればいいのです。
今回は「神様に褒められる人になる」から自分なりの考えを出してみました。
神様に褒められる人になる。
この答えがこの前何となく見えたのですが、まだ不確定なので伏せておきます。
早く確たる答えを探し出してみたいものです。